O.S.Official WEB

O.S.Official WEB O.S.Official WEB O.S.Official WEB

ホーム  目次 >我が模型人生(第2章)

我が模型人生(第2章)


※OSエンジン誕生のきっかけとなったポール・ホートン氏が持ち込んだエンジン。

思いがけない珍客(アメリカ人はバイヤーとの出会い)

 百円の資本でスタートした私の工場は、さっそく活動を始めた。まず手がけたのが 蒸気エンジンである。今とちがってマグネット・モーターもなければ、もちろん ガソリンエンジンもない。模型の動力は、首振りの単押しピストンの蒸気エンジン だった。材料は真鍮で、ごく簡単なものだったが、私は両押し機関やV字型の2気筒型・H型などを、工夫して作り始めた。こうした製品群は、朝日屋さんが引き受けてくれた。また、蒸気エンジンに付ける小さな圧力計を考案して持っていくと、「これはいい」と注文を出して くれたりした。この圧力計は蒸気模型愛好家の一大福音!本邦唯一!という キャッチフレーズで朝日屋さんが「科学と模型」に広告を出し、大きな反響を 呼んだものだ。
 私のささやかな工場もこうして軌道に乗り始めたが、元来、私には玩具業者に なって金儲けをしようという気はまるでなかった。それよりも、新しい工夫・考案 こそが私の真骨頂である。だから、製品が売れて余裕ができると、工作機を つぎつぎに買いこんだ。
 小さな工場もボール盤やミーリング盤などが揃い、どうやら工場らしさを整えはじめたのである。私はその頃、工場の天井に太い動力シャフトが通り、数十台の機械が うなりを立てる様をよく夢に見たものだ。今時はそんな旧式の工場は見かけない だろうが・・・・・。 6坪しかない工場だったが、私にとっては夢の王国だった。蒸気エンジンのほかにも、 私は様々な工作機械を考案していたが、そんなある日、1人の外人がひょっこり工場を訪ねてきた。
 「ポール・ホートンです。」
 と名乗ったその人は、インターナショナル・トレード会社のバイヤーで、日本製の 蒸気エンジンや模型飛行機の買い付けをしていると言う。そういえば、朝日屋に外人 バイヤーから引き合いがあり、私が製造したこともある。そんな わけで、初対面とも 思えず、2人で模型について色々話し合った。
 その後、ホートン氏の家にも招かれた。彼は西宮・甲陽園の小高い丘の上に日本家屋を改造して住んでいた。座敷の畳にマットを敷き、床の間や違い棚には模型がずらりと並んでいた。有名なデ・ハビランド・コメット双発競争機のスケール・モデルの赤い塗料の美しさは、今も記憶に残っている。バルサの筒を胴体にしたライト プレーンや汽車、船の模型も目についた。
 小川さん、あなたのスチーム・エンジン、大変いいです。仕事、ステキです」
 と誉めてくれた。やがて小さな箱を取り出すと、
 「どうです、小川さん。あなた工作大変よろしい。これ、作ってみる気はありませんか。」と切り出した。
見せられたのは、ガソリン・エンジンだった。ガソリン・エンジンについては、 かねがね、制作してみたいと思い、海外の雑誌を見て設計し、試作したこともあった。 しかし日本ではまだまだ商品としては1台も作られていなかった時代である。やはり 優秀で、定評のあるアメリカ製のエンジンを模作した方が安全だし、信頼性も高い。
 私は即座に、「やってみましょう」と答え、彼からそのエンジンを頂って、 いそいそと家路を急いだ。忘れもしない、昭和11年の初夏のことである。エンジンは小型の電気着火式であった。「注・スパーク・イグニッションのことで、 当時はこう呼んだ」


※TYPE-E1の量産品。私としては最も思い出深いエンジンのひとつである。

OSエンジン(海を渡った1型=ピキシー)

 「こういうエンジンを国産化しさえすれば、日本の模型飛行機界は、きっと大きく 発展するにちがいない。そうだ。私の行くべき道はこれなんだ!」
 ホートン氏から頂いたエンジンを机の上に置いて、じっと見つめながら、私は堅く 決意した。
1人アメリカ人との出会いが、私の人生の転機になったわけだ。
 私はまず、エンジンを分解し、細かい製図を描き、次に鋳造屋さんにシリンダー 作りを頼んだ。このエンジンは気筒容積1.665ccで直径12・75ミリ、 行程13ミリで、圧縮比は4.5。今までは見られなくなったピストン・バルブ式の 吸気弁で、排気口は後部にあって、ループ・スキャベンジ方式。私はその一部を模して、新たな設計のエンジンを製造した。回転させてみると、4千回転くらいのものだった。ただし、 フライホイールでなければ始動しなかった。当時はすべて乾電池と感応コイルを積み、燃料もガソリン系統だから、圧縮比も低く、この程度の回転数が常識だった。
 ホートン氏に見せると、
 「オー、ベリーナイス。アメリカ製品よりきれいです」
 と大いに喜び、すぐに注文をくれた。これが、OS1型誕生の瞬間である。
 そして、私の小さな工場からアメリカ大陸へ、日本製の模型エンジンが旅立だった。
 ホートン氏の手で、インターナショナル・トレード会社を通じ、約200台のOS1型 「ブランドはピキシーと刻印」が海を渡ったわけだ。すでに蒸気機関車の方は何百台も 輸出されていたのだが、このためにガソリン・エンジン用のプロペラも設計し、 木工旋盤などを買い込んで製造にかかった。この頃、蒸気機関車のボイラー台などは 西尾音吉氏に製造を依頼していた。氏は布旋・小阪に自宅で仕事をしておられた。 小林茂善氏と親しくなったのもこの頃のことだった。
 やがてピキシーで得た知識と経験から、私は大型のエンジン設計に着手しようと 考えはじめた。
 「いつまでもモノマネばかりでは能がない。本当のOSエンジンを作ってやろう」
 という意気込みだった。昭和12年のことである。
 電着式で、1・5ccで力が不十分。そこで、大きさも重さも2倍ある2型への 挑戦だ。容積は6・92cc、行程20ミリで、重さはピキシーの120グラムに 対して、2倍以上の350グラムになったが、同じ圧縮比で5千回転も出すことが できた。吸気弁をロータリー型にしたのが新しく工夫した点であった。
 しかし、2型ではまだまだ力が足りないと思われたので、圧縮比を5に上げ、 気筒直径を少し縮めて20・8ミリとし、行程の方で21・8にのばし、気筒容積7・45ccものを 作った。3型である。これは、当時のアメリカで定評にあったスーパー・サイクロンに 範をとったもので、ピストンバブルを使っている。重さはわずか30グラム増えただけで、性能も良く、私はこのエンジンをつけたプスモス機とスチンソン・リライアントの2つのスケール・モデルを作ってみた。今のラジコン機くらいの大きさでこれでフリー・フライトをやらかすのだから、当時はいかにノンビリしたものだった かがわかるだろう。
 といっても、エンジン機を飛ばすような人は数えるほどほどしかなく、東京で三島通隆氏、間宮精一氏、清水金一郎氏などが輸入エンジンを使っているだけであった。
 写真用のセルフ・タイマーを付けて、適当なところでエンジンをとめる仕掛けさえ 珍しく、エンジン機を飛ばすだけで黒山の人だかりができたほどだ。
 この3型で、私のエンジンの基礎ができ上がったのである。


※昭和13年、当時のガソリンエンジン付飛行機、「プスモス」

人の和(友情に 支えられて、事業は軌道に・・・)

 ささやかながら、私の事業は1歩1歩着実な歩みを見せていた。だが、この道は先人の 歩んだ道ではない。未知の分野を自分の力で開拓していかねればならないのだ。 模型飛行機のエンジンが、はたして事業としてどれほどの将来性があるのか、誰も 予見し得ない。まさに、高村光太郎の詩「道程」にあるように「私の前に道はない/私の後に道はできる」といった心境であった。
 しかし、どうやら私は運の強い人間らしい。
 当時日本は軍国主義1色に塗りつぶされ、航空機が時代の花形として脚光を 浴びはじめていた。日華事変は中国全土を戦塵につつんだ。国策として青年層の 航空教育が採用され、文部省は小・中学校の教育過程に模型飛行機をとりあげた。 模型飛行機からグライダーへさらに本物の飛行機へ一連の教育が始められたのである。ガソリン・ エンジンの模型飛行機もようやく注目を浴び始めた。
 たしか昭和13年の夏のことだったが、生駒山上でアジア連盟(戦後、至心会と改称)主催の模型大会が開催された。主宰者の木本国三氏は、大阪・桜宮橋で 寒中水泳を催し、夏は大和川で水泳場を開き、そのつど、模型機の大会を独力で行なってきた。本職はハリ・灸の先生だが、青少年の世話役と模型飛行大会の勧進元の役割を務める、国士風の人だった。この生駒の模型大会に私はプスモスを持って出かけた。というのは、幼い頃、模型ファンだった私が、このアジア連盟の大会に出場して賞品をもらい、木本さんとも親しかったからである。
 生駒山上は海拔600メートルもあるが、ニードルバルブの加減にも苦労せず、 エンジン機はうまく飛んだ。見る人に「本物そっくりだ」と感心されるものである。おそらく関西の競技会でガス・フリー機が飛んだのはこれが初めてのこと だったろう。木本氏とのお付き合いは戦後もずっと続いた。
 こうして私の事業がなんとか軌道に乗りはじめた頃、1人の少年がひょっこり 工場を訪ねてきた。広田守君である。岡山出身の彼は、なによりも模型が大好きで、 工場で仕事を見習っている内に、そのまま居ついてしまった。従業員として広田君が第1号となったわけである。非常に研究熱心で根気もよくエンジンの改造、 ラジオ・コントロールの試作、そしていまはライブ・スチーム・ロコの試作と、 定年後も嘱託として、私のそばで頑張ってくれている。彼はUコンによる2時間近い長時間飛行を始め、ラジオ・コントロール機による多くの滞空世界新記録を樹立、 昭和48年5月21日には、12時間43分2秒の滞空世界新記録を樹立してしまった。実機を含め、これが日本航空史上初めての公認記録を樹立した努力家だ。
 又、名古屋から親戚の武智喜久男君を大阪へ呼び寄せ、工芸学校に入れて、卒業と 同時に働いてもらうことにした。その後、長年にわたり、私の片腕として専務取締役で頑張ってくれたが、昭和54年、病気により51歳の若さで亡くしたのは 残念である。
 さて、昭和14年頃になると、模型教育はいよいよ本格化し大阪でも堺市大浜の 水上飛行機学校の1部門として、模型教材部門開設の動きがあり、校長の井上長一さんから私がそのプランニングを任されることになった。私としては、実物の機関について研究もしたく、航空力学や材料学についても勉強しておきたかったので、 引き受けることにした。
 この学校には、軍の払い下げの飛行機が5台ほどあった。また部品もたくさんあって 研究にはもってこいだったが、私の工場の方が忙しくなり2ヶ月ほどしか 通えなかった。わずかな期間だったがこの間に井上氏や教官の中正夫氏と知り合った。井上氏は、独力で堺飛行場を興し、わが国最初の定期航空路を創設した、民間航空界の元老である。中氏は長い航空経験を持つ人で、特に模型飛行機では明治末期から 熱心に活動され、後に毎日新聞航空部に転じ、また財団法人関西飛行協会の事務局長を務めながら模型飛行機の普及運動を続けてこられた。思えば古いことだが、中氏とは、氏が永眠されるまで20年以上にわたって深い交友関係が続いた。
 木本さんといい、広田君といい、中氏といい、みんなの友情が私の事業を支え続けてくれたのである。もちろん、ほかにも模型業界の多くの指導者、同業者、 そして従業員の人たちの支えを忘れることはできいない。
 こうした「人の和」が今日の私を築き挙げてくれたと感謝している。


※私が改良した自動印字機。本業に暇を見つけてはいろいろと工夫をしたものである。

杭全時代 (新工場を開設し、会社組織に)

 地元の人でなければ「杭全」と書いて「くまた」と読める人はまずいないだろう。大阪の東南、百羅(くだら)から平野に通じる街道に通じる街道に、杭全神社という古い 郷社がある。「杭全の喧嘩祭り」で知られた神社でこのあたりが杭全町。今でこそ杭全ロータリーは5本の道路が交差し、交通量の多いところだが、その頃は関西本線に 沿った一面の畑地で、ぽつぽつ工場が建ち始めたばかりであった。
 先にも登場した小林茂善氏が井上長一氏らと堤携して、ロータリーの西の町はずれにあった紡績工場を改造しライトプレーンの製造工場にしていた。堺水上飛行学校に 模型部ができたからである。日華事変の拡大とともに、国民学校と改称された 小学校に、模型飛行機が教材として採用され、東京日々新聞や大阪毎日新聞が、 模型飛行機の普及促進促進に乗り出した頃である。そして、原愛次郎氏・秀政氏・ 浅海一男氏らによって、ゴム動力ライトプレーンのA1型、グライダーのG1型、 グライダー1型が規格化され量産が必要となったために、こうした製造工場が できた。模型飛行機も、今まで業者が思い思いに作っていたものを翼荷重や機体の 寸法・プロペラのピッチ比などを、学問的な根拠にもとずいて決定するようになったのである。私はこの工場と関係はなかったし、やはりエンジンが専門なので、いくら摸型熱が高まってきてもライトプレーンに手を付ける気はなかった。
 やがて、毎日新聞社主催の模型飛行機大会が盛んに行われエンジン機を実演してみせる機会も多くなってきた。 それとともに、エンジン機ファンも増えてきたのである。
 OSエンジンも昭和15年頃、6型の設計を終え、決定版が完成していた。 気筒直径23ミリ・行程22・6ミリピストン・バルブ式のもので、容積9.35cc。2型よりもずっと大きいのに、重量は300グラムに抑えられ回転数も6500に増えて、ずっと協力なものになった。 この頃、この杭全に増田さんという人が、東洋精機工業所という名の、小さな印字機の工場を営んでいた。ひょんなことで知り合って、工場を訪ねてくれ、私も彼の工場を訪問したりしていた。
 「印字機を、いちいち手で回したりしないで、押すごとに字を繰るようにしたらどうですか」
 「そういう工夫ができれば、大変便利でしょうな」
 「ひとつ、考えてみましょうか」
 そんな雑談から駒が出て、私は自動印字機を試作して提供したことがある。こういう考案となると、もともと3度の飯より好きだから、本業に暇を見つけては色々な工夫をした。たとえば、自動的に操作できるタッピング盤を発明したし奇抜きなものでは、アルバムに写真にはさむアートコーナーの抜き打ち機の考案がある。型抜きをしてアラビアゴムを付け、折り曲げる工程を自動化したもので、当初カメラが流通しかけていたこともあってこのアートコーナーの製造はヒットしたはずである。増田さんも、喜んで私の発明を製品化してくれた。
 増田さんは、商売に腕もあったし、良心的な製品を作ってもいたが、時代はそろそろ統制経済に入り、個人経営が難しくなっていった。
 「なぁ、小川さん・・・・・・」
 ある日、彼は浮かぬ顔をして話しかけてきた。経営が困難になってきたので、工場を買ってくれないかというのである。
 田辺の工場は、もともと自宅の一部を改造したもので、手狭になっていたし、 おいおい従業員も増えてくる。ここで新しい工場を求めなければならない時期にきて いたのである。
 「考えてみましょう。なるべく御希望に添えるように致します」
 と返事をして家に帰り、さっそく両親に相談してみた。最初は私の事業に反対だった父も、その頃は私のエンジニアとしての行き方を認めてくれていた。

※TYPE-6の量産品を前にして。後の壁には<増産>とか<大日本産業報告>という文字が見えて戦争の影がしのび寄ってきた時代である。

エンジンの製造が 着々と実績を挙げていることもあって、賛成してくれたのである。
 日華事変は泥沼化し、やがては対英米戦争に突入すると見られ、日本は国を挙げて 高度国防国家へと傾斜しつつあった。しかし、国内はまだまだ平和で、軍需景気もあって、模型界は急ピッチの増産に賑っていた。
 増田氏とは、数回にわたって交渉した。その結果、私の考案した製品の特許権や 増田氏の設備している工作機械の評価などでも折れ合いがつき、円満に工場を譲渡 されたのである。ちょうど昭和16年の秋のことだった。
 引っ越しと同時に、まず増田氏のものだった工場の改築にとりかかった。当時は、 70坪ばかりのトタン葺きの工場だったが、これを、国道に面したところを 事務所として造作し、工場も2階建てに、ほかに製品倉庫も作った。また、田辺から 移した機械の据え付けなどしている内に、その年も押し詰まっていた。
 「新工場に移ったからには、いっそうのこと会社組織にしよう」
 そう両親と相談して、この16年12月10日、東住吉区杭全町518番地に、小川精機株式会社の看板を揚げることになった。資本金は自己資金で20万円を全額振り込み とし、私が社長、父が相談役となり、ここに法人としてのスタートを切ったのである。
 この2日前、12月8日、日本は運命的な朝を迎えることになる。
 「本日早朝、帝国陸海軍は、西太平洋において、英米と戦闘状態に入れり・・・・」
 このラジオ放送を耳にした時、私はジーンと身の引き締る思いがした。
 「いよいよか・・・。これは大変なことになるぞ」
 というのが実感だった。

次回へ続く...
←第一章へ

目次

リンク

TOP