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我が模型人生(第1章)

※私にもこんな時期がありました。(5〜6才の頃)

幼年時代(多治見に生まれ各地を転々。 そして大阪へ・・・・)

  私は、大正6年2月12日、「陶器の町」として有名な岐阜県多治見市に、加藤黒一の三男として生まれた。その後、満3歳の時、松江の小川家に養子として迎えられた。小学校に入ってからは、建築技師だった父の事業の都合で、松江から尼崎、さらに京都と、わずか2年の間に4つも学校を変わったことがある。当然のことだが、親しい友達を作ることもできず、思い出になる遠足の体験もなかった。
 両親もそのことが気がかりだったようだ。
 「あまり、あちこちと引越しばかりしていると、子供の教育によくないな。少し落ち着けるようにしようか」
 「そうですよね1つの学校でじっくり勉強させてやりたいですねぇ」
 そんな会話を寝床で耳にして、ありがたいことだと思ったものである。
 はたして、その後、引越しばかりの生活に終止符がうたれ一家で大阪・住吉公園の近くに落ち着くことになった。
 今振り返ると、4度も住所を移ったことは、一人っ子の私にとって、他人に頼らず、新しい境遇で自分自身を育っていく気質を培うことになったと思う。
転校先は住吉公園のすぐそばにある粉浜小学校である。
当時の住吉公園は、老松が美しい姿で茂っていて、南海電車の住吉公園駅から東へ出れば住吉神社、西へ公園を抜けると高灯龍が古風な姿で立っている。明治時代は、 このあたりまで海がせまっていたということだがその頃でも、高灯龍から西は埋立地。潮風に吹かれながら、砂地を少しばかり歩くと小さな丘があってその向こうに木津川尻の工場の煙空が見え、運河を出入りする船を眺めることも できた。粉浜小学校の周辺も、まだ畑が点在していて、遊び場には事欠かなかった。また、空は出雲のように暗くはないし、尼崎のように工場ばかりでもない。子供にとっては願ってもない自然環境だった。


機械いじりの大好きな小学生(将来の夢は「技術者」になること)

 粉浜小学校に転校した私の、とりわけ好きな学科は、数学と理科だった。数学には ウソがない。当然といえば当然だが、4を2で割れば2である。理科も正直で、 熱を加えれば温度は上がる。ことに理科の実験は大好きで、毎日の勉強が楽しくてしかたがないという具合だった。こういう理詰めの世界が、一人っ子で独りで考え、 独りで遊ぶことの好きな私の性格にぴったりあっていたのかもしれない。
 父が建築技師であったことも、私の理数志向に大きな影響をもたらしたようだ。
 幼い頃から、三角定規やコンパス・分度器・トランショットといった道具が手近くにあり、私の心を強くひき、自然に機械いじりが好きになっていた。
 小学校の何年生だったか、母にねだって、小さな電気モーターを買ってもらった。 乾電池をつなぐと、ブーンと心地よい音を立て回る。その回転音を聞いているだけで、甘美な喜びに酔うような気持ちだった。「この回転を使って、何か別の動作をさせることはできないか・・・」と思いつき、私は、ギアを組み合わせたりテコを動かすことに熱中した。しかしやがてそれだけでは満足できず、ブリキを切ったり、絹巻線を買いこんで、自分で電気モーターを作ってみたりした。町で買ってきたモーターよりも強力に回るような工作を加えたりもした。
 また小型の蒸気機関車にも手を染め、アルコールを燃料にしてボイラーで蒸気を作り シユッシユッと蒸気を吐きながら回る首振りモーターを見て、言葉では言い表せれない感概を味わったものだ。
 この頃から、すでに私の心の中に「将来は機械技師になって、強力なモーターを設計したり、制作してみたい」という思いが強まっていた。幼な心に技術の世界への憧憬が芽ばえ、それは日増しに強くなるばかりだった。
 しかし、父はあまりいい顔をしなかった。
 「お前は一人っ子だから、私の後を継いで欲しい。これからの世の中は建築という事業がますます盛んになるんだから」
 これが父の思いであったようだ。


工芸学校で技術の実際を学ぶ(エンジニアとしての基盤ができた)

 粉浜小学校を卒業後、私は普通の中学校に進まず、工業系の学校に入学することを選んだ。 中学から大学へ進んでサラリーマンになったところで、しかたがない。それよりも、 ほんとうに役立つ知識や技術を身につけて、自分なりの仕事を自分で切り拓いていくほうが望ましいと考えていたのだ。これは父も同じ考えだった。
 昭和5年、私は大阪市立工芸学校に入学した。学校は、南海電鉄平野線の苗代田駅に近い所にあった。専攻は木材工芸。これは父の「将来は建築技師に・・・」という希望を入れてのことだった。しかし、当時の工芸学校には、ほかに金属工芸・図案工芸という学科があり、カリキュラムはほとんど各学科共通。機械いじりの好きな私は、木材よりももっぱら金属に取り組んでいた。
 授業内容はきわめて実際的なものばかりで、私は魅せられたように技術上の知識を吸収していった。旋盤・ボール盤の使い方、マイクロメーターの読み方などの実習は、後の私のエンジニア人生の基盤づくりに大いに役立った。
 工芸学校での5年間は、機械いじりに熱中している内に、 夢のように過ぎていった。 いよいよ卒業が目の前に迫っていた。私の機械に対する興味はますます強まり 「将来は工場を持って工作事業をやってみたい」と真剣に思うようになっていた。
 だが、父は私に建築の仕事をさせたいという気持ちがあり「建築技師になれ」と度々勧めた。しかし、私はやはりベルトのうなりや、油の匂いのしみこんだ機械の黒光りする肌に深い愛着を感じ、そこから離れることなどとても考えられなかった。


模型飛行機との出会い(第3回学生学科模型展で特等賞を受ける)

 話は戻るが、私と模型との出会いは小学生時代である。最初は電気機関車や 蒸気船を作っていたが、小学5年〜6年生頃「昭和初期」に、それまで沈滞気味 だった模型界に活気が出て、飛行機が再び流行し始め大阪・松屋町の狭い町筋にも2、3軒の専門店ができた。この頃から私は飛行機に熱中し始めた。以来、現在まで数えきれない、ほどの模型飛行機を作ったが、初めて作ったのはやはりA型であった。A型といっても今日のライトプレーンA級ではなく、正面から見た形が英文字のAの形をした、2本の棒をA型に組み、2つのプロペラを後ろにつけた推進式(プッシャー)である。小さな前翼があり、主翼は竹ひごに絹を張ってゼラチンを塗ったもので、これを連動ギアのワインダーで2条のゴムを反対よりに巻く。プロペラはお互いに反対方向に回るので、トルクは打ち消されるし、前翼式で失速することもなく、けっこうよく飛んだ。
 もちろん、今のようにセットだの袋物などはない時代で檜の棒とか竹ひごとか、 2つで1組にしたプロペラだの、部品を別々に買って組み立てるのである。
その頃松屋町筋に河野ヒコーキ店というのがあった。店主の河野仙三さんは、 元育英高等小学校の先生で、大阪で初めてガソリン・エンジンのついた模型飛行機を飛ばした人である。話を聞いてみると、小型オートバイ用の重いモーターで、 着火装置がどうしても手に入らないので、重い電池を乳母車に積み、模型飛行機から電線を垂らして飛行機を追いかけて走ったらしい。
 そんな人であっただけに、私たち小さな模型ファンにもいろいろと親切に 教えてくれ、よく飛ぶコツを説明してくれた。この店にはよく通った。 小学生のことで、十分な小遣いがあるわけでもなく、後に東住吉の田辺に移ってからも、電車賃を倹約して長く続く松屋町通りを歩いて通ったものだ。この店は大阪の模型界で最も古い歴史を持っていた店だ。
 模型店では、もう1軒未吉橋の近くに川上模型店があった。この店も戦後息子さんの代になり、結局は無くなったが、ここに勤めた人たちが、今では立派な店を構え、大阪の模型業界で活躍している。
 さて、私の模型作りは、こうしてA型からスタートし、やがて当時トラクター式と呼ばれていた、細い三角胴の滞空機を作ったりもしたが、私はどういうものかゴム動力には飽き足らず、機械動力にたまらない魅力を感じ始めていた。
ちょうど、実家に近い阿倍野橋を少し北に入ったところに、朝日理科模型製作所「通称・・・朝日屋」という店があって、私はそこへしげしげと足を運ぶようになった。朝日屋は電気モーターや電気機関車、モーターボードなどを手広く扱っていた。店主は佐原一 一さんで、店の一角に作業台を置き、バイスやドリルを 備えて、模型ファンに自由に作業をさせてくれた。
 工芸学校に入学して1年後の昭和6年夏、この店で鉄板を切ったり、ヤスリをかけたりしてD6000型蒸気機関車の精巧なものの制作に着手した。「子供の科学」や「模型と実験」などの雑誌をボロボロになるほど読みふけって雑誌に掲載されていた製作図を自分なりに作り直し、機関車や蒸気機関車をこしらえたものである。 設計に要した期間が3ヶ月。その後、さまざまな難関にぶつかりながら、満3年をかけて完成した。この作品は、第3回全国学生科学模型店に出品し、特賞を受けた。 「科学と模型」昭和12年6月7日号で、詳しく紹介されたいる。
 この蒸気機関車は、私にとっては摸型の処女作だったわけで、大切にしていたのだが、ずっと後になって阪急百貨店の展覧会に出品した時に、 盗まれてしまった。今でも惜しくてならない作品だ。


※鉄板を切ったり、ヤスリをかけて作り上げた機関車。今は懐かしい思い出である。

OS誕生(百円からの出発)

 昭和12年3月、私は大阪私立工業学校を卒業した。
この翌年、北支事変が起こり、やがて第二次世界大戦へと戦火が広がる、 日本の歴史の転換期でもあった。この頃から摸型飛行機は国策の1つに組み込まれ各地に摸型飛行機クラブが誕生し、競技会が盛んに開催されるようになった。 といっても、ほとんどがゴム動力で、わずかに圧縮空気モーター機があった程度。 それも不完全なので、海外の雑誌に紹介されている小型のガソリンエンジンは、 まだ日本では姿を現してはいなかった。
私たち一家は東住吉区田辺本町6丁目に移っていた。父はやはり建築技師として、 南海電鉄の工務課に勤め、堺市で発電所の建設にあたっていた。
 卒業後の私の希望は、自分の工場を持つ事だった。摸型作りで親しくなった 朝日屋さんからもあんた、研究熱心  だし、仕事もきれいだ。どうだね、エンジンを作ってみなさらんか」と勧められてもいた。
 「工場をやってみたいので、工作機を買って欲しいのですが・・・」
 と、父に何度も相談してみたがなかなかウンとは言ってくれない。父にしてみれば、私に建築技師としての道を歩ませて後を継がせたかったのだろう。
 母にも頼んでみたが、父の思いを知っているので、いい返事はしてくれない。
しかし母は、私の熱意が尋常ではないことを知り、根負けした形で「それじゃ、 わたしが買ってあげます。そのかわり、お前、仕事は真剣に、何があっても やり遂げなければいけませんよ」と、承諾してくれた。その日は、嬉しさが心の 底からこみ上げてきて一晩中寝つけなかった。母は、これまでにも影に日なたに私のわがままをかばってくれ、 父に内緒で摸型作りの小遣いをそっと手渡してくれていたが、この時ほど慈愛が身に浸みたことはなかった。
 翌日の夜明けを待って、私はかねてから欲しいと思っていた旋盤を買うため、 谷町筋にある機械工具屋へ駆けつけた。すべすべと底光りのする、黒い小さな旋盤を目の前にして、私は「これ下さい。すぐに家に運んで欲しい」と、大声で叫んでいた。今思えば、駄々っ子が欲しい玩具を手に入れる時のように興奮ぶりだったこと だろう。家の衲屋の一部を土間にして、旋盤を据えるタタキの台座にし、 そこに旋盤が置かれるまで、私の胸は高鳴るばかりだった。
 2分の1馬力のモーターも据えつけられ、動力線も付いた。
 布切れた油を浸ませ、旋盤の肌を丁寧に拭う。主軸台の回し金芯押し台を、何度も見つめ、渦巻きネジの入った本体の幾何学的な美しさに、ほれぼれとして、 しばらくは時間の経つのも忘れていた。
 スイッチを入れる。快いうなりを上げてモーターが回転し始める。芯押し台センターが、微塵の狂いもなくしっかりと工作材を押し鋭いバイトは、見る間に材料から螺旋状に金屑を飛ばしていく。
 「動いている!」
 機械が動くのは当然のことなのだが、思わず声が出ていた。胸の奥からこみ上げてきた感動が出させた声だった。
この時以来、何十台もの立派な工作機械を導入したが、この1号旋盤を自分の手で動かしたこの日の感激にまさるものはない。
 この第1号旋盤は、昭和50年頃までエンジンの製造工場で、その後数年間は治工具部門で製造の裏側として働き続けてくれた。昭和58年奈良工場の完成と共に現役を引退、綺麗に化粧直しされ、今は最新の設備を誇るなら工場の玄関に堂々と先輩顔して座っている。思い起こせばよく働いてくれたものだ。
 母からの尊い贈り物であるこの旋盤は、40円。モーターは5円だった。 他にボール盤やグライダーなど、総額で100円。間口4日間・奥行き5間の2階建 二戸一の家が、1000円で建てられる頃のことである。

.....次回へ続く

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